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1963〜1965年

1963年(昭和38年)

 この年、8月1日付けで西高ブラスバンドクラブが発足した。

 この年の2年生はどことなし西高のオーソドックスな伝統から逸脱した、突然変異因子のような者が多かった。 彼らは若い反抗の情熱やバンカラ部隊のばっこを謳歌する事にエネルギーを発散させていたが、 こんな気質を抜きにしてはブラスバンドクラブの創設は語れないだろう。 野球応援の際に校歌を大合唱するにも、大太鼓一つではあんまりだとの憤慨が2年生の中につもっていった。

 こんな雰囲気の中、2年生の保良隆和(42)はブラスバンドクラブ創設に情熱を注いだ。 彼は知人に声をかけ、器楽同好会に話を持ちかけるなど、口コミによってメンバーを募った。 中学校時代のブラスの後輩である1年生の吉村仁(43)も保良に誘われ、クラブに参加していないクラスメートたちを誘った。

 とりあえず10名程度のメンバーが集まったところで弘津校長に何度も掛け合い、結果、27万円の予算を獲得できた。 バリトンやユーホニウムなどはその予算で買ったが、クラリネットやトランペットは自前であった。

 学校は生徒の活動には寛容であり、バイク通学も自由、長髪も自由。 部長の担任がクラブの顧問であったが、クラブにはいっさい干渉されず、すべて生徒の手作りで活動していった。

 さっそく文化祭に出演。行進曲など何曲か演奏した。野球応援や体育祭の行進などだけのためにバンドを結成した訳では決してない。 ブラスバンド=行進曲楽団という殻にははまりたくなかったが、結果的には圧倒的に行進曲ばかりになってしまった。 編成面でも、技術的にも、この時点ではこれが精いっぱいであった。

 しかし意識はもっと高いところに置いていた。

 青白い顔の文化部であるべきではないと、クラブの開始時、あるいは全員の心が合わない時など、グラウンドのランニングや忠霊塔に上がる坂道を兎飛びなどした。 クラブの掛け持ちも禁止であった。スタートしたばかりで、はがゆい想いばかりの毎日だったが、“あるべき姿”だけは、必死に見つめようとしていたのだ。

1964年(昭和39年)

 多少の出入りはあったが、部員は3年生4人、2年生4人、1年生6人となった。 アルトサックスが1人仲間に加わっただけで、一挙に行進曲の束縛から解放された、と喜んだものだ。

 だが小倉や博多にまで楽譜を買いに出かけても、この程度ではまだ、絶対的に楽器の種類が足りないという事には、泣かされるばかりだった。 木管が2人以上というのは夢のまた夢、ましてチューバやフレンチホルンなどは夢を超えた想像外の世界であり、幡生工業高の大編成バンドをとてもうらやましく思った。

 それでも可能な限り理想に近づけようと、意識的に行進曲以外のレパートリーに取り組んだ。 この年の文化祭では「闘牛士のマンボ」や「パレアナの青春」などを演奏したが、少々無理に背伸びしていたところがあるのかも知れない。 西高新聞にはひどい事を書かれてしまった。

 だがクラブ活動のやり方については、生徒たちには概して良い印象だった。 基礎体力をつけると同時に精神を鍛える意味を持っていたランニングや兎飛びに対しても、他の運動部員達は「これまでの文化部とは明らかに違う。 本当にクラブ活動に打ち込んでいる。」「ブラスでも、あんなにも必死に取り組んでるんだ。」などと高く評価してくれており、周囲に刺激を与えている事は自分たちにとっても励みであった。

 一方で教員達は無関心である。“生徒の活動に寛容である”というのは、裏を返せば、「勉強さえしていれば他の事には関与しない」という事であり、 なまじ『青春とは何だ』の世界に生きようとする先生は、西高にあってはパージされる風潮があった。

 しかし無関心以上に、非難されては黙っておけない。卒業まぎわの予算取りの時、生徒会に参加した保良は、 一人の教諭から「チンドン屋ごっこに金はいらん」との暴言を受け、またその暴言を支持した生徒の胸ぐらをつかむなど、ひと騒動してしまった。よほど悔しかったのだ。

 音楽との闘い、受験との闘いと共に、周囲との闘いが、この後の西高ブラスはずっと続いていくのである。

1965年(昭和40年)

 1学期に楽器を盗難されるという事件がおこった。しかもたてつづけに2回。生徒も学校も楽器の管理にはそれほど神経質ではなかった。憤慨したのはOBの保良。 夏休みに講堂に部員達を集め、さんざん説教した。苦労して予算を獲得した経緯があるだけに無理もない。楽器は広津校長に頼んで何とか補充してもらえた。

 代が変わればクラブの雰囲気も変わる。ひたむきに音楽を見つめ、基礎トレーニングに励むとかいうよりも、部室に行けば仲間がいる、そんな感じが好きでクラブにきていた。 いやな事があってもクラブに行けば心がなごんだ。たぶんにそれは3年生たちの人格による所が大きい。したがってランニングや兎飛びなどは廃止され、練習に参加する事にも自由なムードだった。 1年生たちは当然のんびりやっていた。

 夏休みにも練習は毎日やっていた。しかし自由参加のムードの中で練習に来るのは4人ぐらい。ここでもOBの保良に怒られ、「ぜひいらして下さい」などとハガキに書いてみんなに出した。

 文化祭では3年生たちがクラブとは別にエレキバンドも演奏した。また後半のステージでは衣装にも凝り、学生服の詰め襟を内側に曲げ、袖を折り、厚紙の蝶ネクタイをつけるなどの演出もした。 多くのメンバー達がこんな雰囲気を楽しむ中、2年生の早苗寿男(44)だけは反発した。

 この当時下関の中学校では吹奏楽がまだ下火であり、県内の他市ではいくつかの中学校がコンクールにも出場している中、下関市は2〜3の中学校でやっと吹奏楽部が産声をあげたばかりであった。 「文化不毛の地」とさえ言われていた。一方早苗は名門と言われていた萩市や山口市の中学校で活動した経験があり、実力もさる事ながら吹奏楽に対する独自の理念を持っていた。

 3年生たちは次期部長に早苗を指名したが、さんざん考えた末の結論だった。「楽しむクラブはこれで終わってしまう」ことへの不安と寂しさを感じていたからだ。

 “クラブのあるべき姿”を別の一面から模索した1年であった。



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